思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

安楽死という死について考えている。

『安楽』という言葉が、棘の様に引っかかるが、それはあとにしよう。

周囲の者たちが納得すれば、人は自ら死んでも良いのか?

いや、むしろ死と反対に、人は自らの生を望む限り生き続けていいものだろうか?
死というプロセスを無視してでも…。これは強ち行き過ぎた欲望として見られる。と、言うことは死という自然の摂理を無視して自らの死を早めること、それが非難される要求を選ばせざる状況を作っているのも、周囲であり社会ではないのか?

別の見方として。
自らの死を求める者は、為政者にとって社会システム(それが最小である程)を崩壊させる可能性があるから、忌避されているだけではないのか?
為政者に反対する勢力が、為政者達の社会を無きものにしようと何らかの力を行使した時、両者間で、死を伴った争いが生じても、それが(双方にとって)咎められる事の無いように。

極端な話。
無人島に流れ着いた者が、一人死を選び実行に移したとしても、最小限の社会が其処に存在しない以上、誰からも非難、或いは承認されることはないだろう。と言うことはつまり、自殺を咎めているのは何らかのコミュニティであり、それらを内包する社会システムそのものではないか。
社会システムの欠陥が、個人に死を選ばせているのだろう?
ならば、非難されるのは、死を選ばざるを得ない個人ではなく、社会システムそのものではないのか!

何らかの病を患い安楽死を選らんだ者がいる。
病が快方するならば、死を選ぶだろうか?
社会の病魔が個人を追い込む。その病魔が改善されるとしたら…?

それでも、死の快楽に取り憑かれた者は、自らの命を絶つのだろうな。きっと。
成否はともかく。
あっ?!視点がずれてきた。。。


〜〜11月6日の呟きより