思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

選択の洗濯

人が生きる為に何かを選ぶ様に、その何か、は、人に選ばれる時を待っている。
そんな気がした。

誰でもいいからと言う人程、誰かを選別している気がするのだよ。

性格が岐路を左右する。
理解ではないのだ。感覚は時に無理解で不可解。

表面上の振る舞いと、ベースとなる自分。
乖離が大きい程、心理的負担は増すのだろう。
自分は所詮、自分でしかない。自分とは違う誰かを装うのは、限界がある。
幾ら自分に発破をかけても、無理なものは無理なのさ。

人の"価値"は、他人が決めるものだろう。
しかし、さ。自身の価値を、他人に委ねるってのは、どんなもんだろうね?
…と言いつつ、価値観なんて相対的な基準でしかないから、絶対基準を自分の中に見つけるしかないのだろうね。

価値てのは、心が生み出しているのだろう。
決めていると言ってもいい。
だから、心のブレとともに価値観は変わるし、ブレない心の価値観は変化しない。

一万円札をただの紙切れとみなすか、一万円の金銭的価値があるとみなすか?誰かが決めるんじゃない、自らが選び取るんだ。本当の価値観とはきっとそういうことだ。

で、今の自分は生きている価値があるのか?
と言うと、無いような有るような…漠然とした存在でしかなかったりする。
死んで消えるよりマシな程度の存在。家族が居るしさ。
私が生きていることで、家族を生きながらえさせる事も出来る。金銭的価値観によって。ただ消えても何とかなる気もしている。

幸せにの多くは虚像。
実像は、然程も無い。
でも人は、虚像に振り回されるのだよね。
目の前の実像を放置して。


〜〜3月9日の呟きより