思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

8月27日の呟き

カミサンと買い物へ出掛けたら、雨に当たった。
予報じゃ夕方から酷くなるようだったけれど、今もなかなかな降りじゃんね。「雨男だから」とカミサンは笑うけど、なんだかなぁ。

小雨になった、散歩のチャンスだ!と勇んで出かけたら、途中から土砂降りになった。流石!雨ワンコ。

シャワーのような雨が降っている。
誰か、蛇口を捻ってくれないか?
そうしたら、雨かシャワーか分かるだろう?

幻想を抱くな!
現実を直視せよ!
そして僕は、柿の種を喰らう。

知らぬ間に人生始まってて、気づく間もなく終わっている。
そんな浮世もいいかな?なんて思ったり。

迷走する言葉の中に真実が隠れているとしたら、明言される言葉には欺瞞しか無いって事じゃないか!

結局、さ。
誰もが世界の主人公で誰しもが世界の脇役で、観客ってのは此の世界じゃない何処かの誰かさんなんだろう?

ただ今、思考が過剰防衛反応を示しています。

自爆しながらも地雷を巻き続けるような野党には辟易するけれど、与党が強すぎる国家ってのは、どうにも虫唾が走っていけねぇ。

会社人なんて大半が、社畜である前に金畜だろ?と、思ったり。

なんだか今日は言葉が荒んでますなぁ。心が風邪を引いているからでしょうか?

今ある二次元コンテンツのWebが三次元のVRになったら、コーデックする側もされる側も大変になるのか? それとも技術革新で楽になるのか?
…などと思ったけれど、所謂プログラマーさんは今も昔も大変なんだよね。そして未来も、きっとね。

おっ、夕飯の時間だ。
またねタイムライン。

私が私であるために、私の言葉を使う。発する前の言葉は私だけの記号。

人は、色の少ない白銀の世界に居ると、とても多彩な夢を見るという。
ってことは、さ。
経験の少ないものを補うのが脳だとしたら、作家の作品は経験の無さを補う装置何だろうか? 一種のマスターベーションみたいなものか?

普通という名の大衆装置が、時折、僕を苦しめるのさ。

雨音が奏でる季節。
蝉の鳴く季節。
コオロギが鳴く季節。
季節は音から始まる。

むか〜し付き合っていた人に、贈った物の大半を返された経験がある。
でも“大半”であって”全部”じゃないところに、彼女の人間性が透けて見えた。。。

0=∞。
刹那=永遠。
この図式は正しい?

また裁判所から呼び出しさ。
種を蒔いたのは自分だよ。確かに自分だ。
しかし、変なのが育っちまったよな。責任もって刈り取らねば。

「メンヘラ」という言葉も「垢」という略号も嫌いである。
ついでに「揺蕩う」も。

神様を信じていない僕が、あなたの幸せを祈るなんて、烏滸がましいかい?

カミサンが横に寝ている夢を見て、目が醒めてからも横に寝ているカミサンを見て、寝ているのか起きているのか、微妙な眩暈を憶えながら、トイレに起きたのは、一昨夜の出来事。
でも…。
本当にトイレに起きたのだろうか?

明日は仕事だ。
パートだからね。使われてなんぼだもんね。

ミカエル、ラファエル、ガブリエルって、人の社会に例えると課長クラスなんだよね。

闇が読めと呼んでいる。
またねタイムライン。


〜〜8月27日の呟きより

人形は奏者の夢を見る

精神って、限界超えると驚くほど「あっ!」という間に崩壊するのではなく、徐々に蝕まれるのだね。徐々に徐々に。
で、気付けばドン底のような空間に閉じ込められた感触に取り込まれる。そこが底なのか知る由もなく、ただただ独りの状態。

それを孤独というのなら、紛れもなく孤立していたのだろう。
いつ頃からか、孤立状態を愉しむことにしたからか、底の景色を見飽きたからか、それとも処方箋が効いているのか。
なんにせよ、人と会話できる状態にまでは復帰している。

相変わらず思考速度は遅いが、まぁ動いていないよりはマシだろう。

自分を問い詰めても、コタエは出なかった。
自分を傷つけても、時を忘れることはなかった。
自分を追い詰め、極限まで奮い立たせた結果が、鬱さ。
身体は脳は素敵だよ。思考や精神に反乱する術を持っているのだから。

此の世に未練が無いかと問われれば、無いと答える。
それは、鬱状態が酷かった当時も今も変わらない。
けれど、僅かばかりの未来を視てみたいと、今は思う。

この先、誰かが僕のシナリオから消えて世界は変わり、世界の終わりには誰が現れるのか?
その物語を描くのは、女神か物の怪か?
でも、さ。
動かされる道化が、意思を持っていたっていいだろう?


〜〜8月27日の呟きより