思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

受け手の努力

心に浮かんだ無限の思いを、脳内の百万余の語彙から近いものを手繰り寄せて、なんとか言葉に置き換える。
おそらく。
心の思いが百ならば、言語化された思いは、せいぜい三。
その三を丁寧に解き放っても、受け手が三の全てを受け取れるとは限らない。
もしかしたら、受け取れるのは一かも知れないし。その一とて、受け手の語彙に存在しない言葉なら、零になることも多々ある。
思いを伝えるってのは、つまるところこういうことさ。

学校での虐め経験について、親御さんに話をしている投稿があった。
親御さんの致命的な問題は、子どもの話は『子どもが受けている虐めの全てではない』ってことを、まるっきり理解していないところ。
語彙力、表現力、言語化、その全てを子どもなりに精一杯駆使しても、肝心の受け手である親が通り一遍の表面しか受け取っていない。
足りない言葉の裏に込められた体験なんざ、まるで無かったかのように…。

初めての子どもが、十歳ならば。
親としての経験は十年しか無い。
人としての実年齢と、親としての経験年齢は違う。
…なんて至極当たり前のことに、どれだけの親が自覚しているのだろう?


~5月30日のスレッズより