思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

鏡の時計

会社の、一、歯車が欠けても、恐らく、会社は存在するだろう。
では、社会はどうか?
社会も存在しそうだ。
ならば、世界はどうか?

世界っての、ようは個人が認識できる最大単位。
個人の認識如何で、その大きさは変わるし、存在も変わる。
何故なら世界は、個人に依存するからさ。

個人を取り巻く世界の中心はあくまでも個人であり、個人の誕生によって存在し、個人の死によって終息する。
個人を歯車に例えるなら、歯車の無い世界は存在し得ず、その逆もまた然り。

もしも世界から断絶"されている"と思うのならば、それは世界を断絶"している"と言えないのか?

個人を取り巻く世界と世界観は、違う認識の下にあるのだよ。

自分が死んだら全てが消える!と思っている人は、生まれた時に全てが始まったのだろうか?
それはつまり、とある世にある日突然自分が生じ、ある日突然自分ごと世が消える。そんなイメージだろうか?

世界の外側って何だろう?
世界の内側って何だろう?

認識の外と内。

会社の中では、一、歯車だとしても、世界の中心は自分だと思うのよ。

そーぞーりょくのけつじょ。

「自分は何も出来ない」と「何も出来ていない」と、人の言う。
「何もやれない」、「何もやれてない」とも、人の言う。
でもさ。
「出来ない」のと「やれない」のとは、違うと思いますの。


〜〜10月18日の呟きより