思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

ごっちゃ!

幸せにカタチを求めるから、苦いのかもね。

0か100かに固執する人は、99の数字を捨てているのでしょう?
2つだけとって99を捨ててしまうなんて、勿体無い気がしますの。

知ってしまったら、知る前には戻れない。
何も知らなかったら、懺悔のしようもない。


やらないで悔いるくらいなら、やりなよ。
やって悔いるくらいなら、やめなよ。
結局、どっちだ?

「みんな」は幻想。
「普通」は妄想。

過去に感謝はしないし、未来に期待を抱かない。
ただ飄飄と。あるがまま。

運命の神にはグーでパンチを。
運命の女神にはパーで平手打ちを。
とりあえず、往く日の目標は変わらないし、三十年以上ブレてない。

「被害者面」は「加害者のそれ」よりも、性質が悪いと思いますの。

「誰かの所為」にするのは、至極簡単な逃げ。
「自分の所為」にするのは、ただの思考放棄。

真実の愛って劇薬でしょ?
一度でも味わってしまったら、抜け出せないくらいの…。

偽物の愛と。
本物の愛と。
その差が分かるのはきっと、本物を知っているから。

愛情ってのは、一方方向だと、いつかは涸れてしまうもの。
だから、双方向が大事なのさ。

「想い出を振り返り過ぎると、大切な人を見失う。」
つまるところ、捕り逃した大物を語るのはいいけれど、過去ばかり見ていると、目の前の獲物を逃してしまうってことだよね?

駆け引きより、信頼を。

息するように恋をした。

毒親」と言う人も居るけれど、さ。
「毒」とするか「薬」にするかは、心の度量だと思いますの。

子にとっては、親が社会への入り口。
だから現実を教えている。年齢に合わせて。オブラートに包んで。
でも、所詮はオブラート。必要なモノ達は、しっかり吸収されているのだ!と思っている。
身勝手な親かも知れないけどね。

幸せが見えたら、人はソレを掴むのだろうか?
例えソレが、底なしの泥沼にあったとしても。

この歳になるとそれなりに、先に往ってしまった人たちが居るものだけど、遺してくれた想いは、様々なんだよね。重みも中身も。

想いを声に出すのに、どれほどの勇気がいったろう?
裏切りを行うのに、どれほどの葛藤があるだろう?

昇った先が天獄だったら、どうしましょうかね?


12月5日の呟きより