加州の珈琲屋の店員がネットに写真を掲載された事件なんだけど。
私は違和感を覚えるの。
支持、不支持。
それらを外野がするのは自由よ。
でね。
当事者間の話し合いがないのに、外野の大半が片方の言い分を是とする。
そこ迄なら、理解出来る。
だけど、この事件を美談にするのは、どうなの?
当事者間の話し合い無く、大多数が一方を是とし。
もう一方を非とする。
そして、美談として纏められる。
それって、とても怖いのだけど…。
殺人は何故いけないのか?
自分の脳味噌で考えたこと、あるのかな?
ただ「法律でそうなっているから」と思い込んでないのかな?
法律は絶対、なの?
法律が絶対の善で、完璧な正義ならば、皆が皆、守るはずよね?
でも、憲法は蔑ろにされるし、されてるし。
もっと身近な例えなら、あなたは必ず一時停止を守る?
一台も車が来ない道の赤信号は、間違っても渡らない?
殺人と信号無視を同一線上に考えるのは、おかしい、ですか?
自分の都合に合わせて、解釈しているわよね?!多かれ少なかれ。
その曖昧さがあるから、社会は、適度に回るし、回されるし。
多くの矛盾を孕んでいるけれど、自由の余地もあるじゃない。
自由の余地、あるいは余白。
それを奪うのは、昔は独裁者だったけれど。
今は、数。
大多数と言う名の、数。
先の戦争を生き延びた親から、散々、言い聞かされたあの時代の「空気」。
それに近いものを、私は感じるの。
罪を犯した者は、判決が出るまで、犯罪者じゃないの。
容疑者(あるいは被疑者)なの。
判決を下すのは司法。
そう決めてある社会に生きているはず…よね?
なのに、数の力で是々非々を決めてしまう。
息苦し。
やーね。
~~6月30日の呟きより