「分類」がご時世だとしても、キサーゴータミーの話を知らないのは、なんだかな。
それもまた、ご時世かもな。
分類と分断は違う。
が、しかし。
分類するほど、分断を誘発するのは、さてどういうことか?
できる、ことと。
やる、ことと。
全く異なる言葉と、全く違う意味と。どれだけの人が理解した上で、使っているのか?
克服と制圧は違うし。
完治と撲滅は違うし。
割れた茶碗を金継ぎしたら、それは元の茶碗か?
それとも、別の茶碗か?
金継ぎ前の茶碗と。
金継ぎ後の茶碗と。
湯を飲む、それだけが目的ならば、前後の違いは無い。
しかし。
眺めるなら、どうか?
飾るなら、どうか?
欠ける前も、欠けて直した後も。
茶碗本来の用途、それ自体に不都合はない。
ならば、人ならどうか?
怪我をする前の自分と。
怪我が治った後の自分と。
日常生活を営む上で、違いはあるのか、それともないのか?
幼い頃から、まぁ、あちこち切った貼ったして。骨も何箇所かヒビを入れ、歯を折り、今に至る。
直近なら、指の皮をぺろりんと剥きくっつきはしたものの、曲げる角度は浅く物をうまく摘めない。
でも、自分は自分。
指に限れば、摘めないが、掴めない訳でもなし。
皮を剥いた指じゃなきゃできないことがある…訳でもなし。
不都合はあるが、不自由ではない。
鬱を二度患い…正確にはまだ治療中ではあるが。
日常生活に不都合は、あまりない。
患う前よりも、記憶は衰え、思考も衰えたが、加齢もあるだろう。
完治しようがしまいが、時折、動けなくなろうが。それもまた日常。
動ける時に動けばよい。
だから。
動けない時は動かない
それだけのこと。
~~6月6日の呟きより