思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

よく見聞きする

「救い」ってのが解らない。
広義の「救い」なら、それこそ対象は"全て"で。そこに篩は無い。
狭義なら、個に対してなのだろうし、選別もある。
解らんのが。
広義の意味合いで使っておきながら、選別を求めていること。
何様のつもり、なのか?

弱者を救済する時。
人間の世なら、そら、狡い奴らも混じるのが当たり前で。
その狡さをも含んで救済しない限り、真に困窮している者が溢れてしまう。
何かしらの基準を設けた時点で、救済が届かない者が出て来る。
救いに篩は要らない。
あってはならない。

紛争や戦争、全ての争いをやめろ!と言うのは分かる。
ガザへの攻撃をやめろ!
でも、他は知らないってのは、篩に他ならない。

だから。
特定の教えで、「信じる者だけ救われる」ってのには反吐が出る。
「救う」なら、対象は全て。
人種、性別、思想、関係なく。
人で無くても鬼も魔物も。
動物だろうと植物だろうと微塵子だろうと、全て。
それが出来ないなら、神も仏も要らない。

生まれながらの悪人ってのは、何処にも居ない。
生後七日の赤子が包丁を振り回して人斬りする…訳ない。
成長の過程で様々な影響を受けて、変化してしまうのが人。
悪人も善人も、社会が作り出している。

「強い」とか「弱い」っての。
所詮は相対的な見方だけど、さ。
真に強き者(と言う立場)なら、差別はしちゃならないのよ。
強き者が、例えば政府なら。
国民の救済を行うのなら、それは国民全員に対してであって、所得制限だのなんだのと篩を使うのは、ただの差別。国民差別。
「予算がー!」と言うのなら、まず自らの報酬を減らしてでも、国民全てに遍く渡るようにするのが、政府の役目。
差別を増長する政府なんざ、一、国民として要らない。


~11月20日のスレッズより