かつて、自然崇拝を多くの人類が棄てたのは、きっと多くの人が支配されたがったのかも知れない…。
自然の中に神秘を見い出し共有し畏怖すべきものとして扱っている時は、畏怖の対象を“自らの思考の下”、切るなり煮るなり食するなりして来たと思うのさ。祟りが無いように祀りながら恐怖に怯える。
そこにつけこんだかどうか、は判らないが、支配する者あるいは自然と言う名の神に近いところへと祀り上げた者(曰く、シャーマン?)が、この手法なら祟られない!と、お墨付きを与えることで、多くの者は自分で考えなければならない恐怖を克服したように感じたのではないか?と。
誰かの教えを「絶対」のものとすることで、思考停止をする。
今ある多くの宗教が、神の教えを、仏の教えを「絶対のもの」としている点はそこにあるんじゃないか?と。
自らの思考を使わず、信じて疑わず。心を惑わされない安堵感。
崇拝する者の代理として、教えを説く者にとっては、こんなにも都合の良いことは、ない。
だって、自分の言葉が、崇拝すべきものの思想でなかったとしても、誰も疑いを抱くことはないのだから。
同じように、過去、神に近き(と、初期は持ち上げられた)者が、自らを律することを放棄し私欲に溺れたとしても、誰にも咎められない。
これは、現代へと続く権力構造に近いものがあるのじゃないか?と。
いわゆる権力者を選ぶのは自分達(と思い込んでいる)有権者が、未だ「御上のやることは絶対」としている点と、思考停止とが結びついている。
ゆえ、御上に逆らうものは刑罰を喰らうのが当然といった風潮(と言う名の暗黙のルール)もある。
そんな気がするのよ。
人類が、自然崇拝を棄てることによって得たのは、偶像崇拝…ではなく、自分の思考を停止させたことによる安堵感、安心感。
そしてそれを利用する権力者、と言う構図。
宗教も政治も、権力構造が似たようになるのは、それこそ自然の成り行きなのかも知れないね。
自らの思考を停止させる。
つまり「雑念を払い、神や仏の教えに従い、信じ、崇拝することで、心の安寧が得られる」という文句は即ち、それらをしないことで発生してしまう(←実際はしない)かも知れないという恐怖心から逃れられる。
それを私は「思考放棄」と呼んでいるけどね。
さて、どうだろう?
責任放棄から得られる安堵感。
その責任を一手に任せられているという高揚感(と我欲)。
陳腐な言い方をするなら、Win-Win の構図。
それらの結果が合わさり、権力の暴走と力による支配と、未だに治まる気配すらない、各地の紛争へと続いている。
思考を放棄した代償として、今も血が流れる。
なのかなぁ??
なんだかなぁ…。
人類って、馬鹿者だわさ。
「同意」って怖いわ。
「総意」って、もっと怖いわ。w
何かに従っていれば、縋っていれば、自らの責任感から逃れられる。ゆえの、恐怖心からの解放ってあると思いますの。
疑うって、自己との葛藤だもの。
信じるのも、葛藤だけどね。
そこに恐怖は、無いよ。タブン…
何らかの宗教に属する人達は、教えに従っている“だけ”なのだろうか?
その教義を“疑う”ことはしないのだろうか?
その教義を流布する者は、信仰の対象では無いのに、絶対視してないだろうか?
「何故?」って、「疑問」って、とても大切だと思いますの。私。
~~12月29日の呟き