思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

にほんご

為政者側が放った「自己責任」に陶酔し、未だ陶酔に浸っている日本人って、きっと“社会性を伴う”人間では無いのだろう。
人間、ますます減るよな。
人は、うじゃらんじゃらん増えているけども。

割と多くの生き物が、自他問わず困っている者が居れば助けるし。
困っている者を突き放して「自己責任」と嘲笑い蔑むなんてのは、“社会性を伴う”人間ならしないし、してはならないことで。
「自己責任」を振り翳す連中は、社会って概念が欠如したヒトらではなのだろう。

そもそも。
日本語としても、おかしい表現なのだけどね。→「自己責任」

私が“私”のことを誰かに話す時。
私と言ったり、自分と言い換えたり。時には僕も使うし、日常ではあたしも多い。
多くの人が、いろいろ使い分けていると思うけど。
自分自身の…つまり「私」のことを「自己」と言い換えて使う人って、どれくらい居るのかしら?

おそらく。
誰かとの対話や会話の中で、自分のことを「自己」と呼んでいる人は居ないだろう。
「自分」ってのは相手から見る。外側からの視点がそこにあるのよ。
じゃあ「自己」は?と言えば。
「自分の」外側からの視点はなく「自分」から見た内側の世界。それが「自己」。

「責任」ってのは、社会の中で負う義務で。
無人島へただ一人渡り、一人で暮らしている限り「責任」は生じないし。
一人の生活に、他人と関わりから生じる社会もないし。
「責任」という言葉が持つ範囲は、「自分」の外側にしか無く。
「自己」という言葉の持つ範囲は、「自分」の内側にしか無いのよ。

およそ、くっつきもしない言葉を無理矢理くっつけて煙に巻くのが得意なあちらさんならではの造語をホイホイと受け入れてしまう程、言葉に鈍感な人が増え続けている二十一世紀という時代。
なんか、ねぇ。。。


~9月21日のスレッズより