思考錯誤屋の呟き

「日々の事柄」を適宜更新中。

玉手箱

このところ、いわゆる終活を考えている。
生は一先ず置いておいて死を見つめた時、やはり潔く後腐れなく消えるにはどうしたらいいのか?もあるのだが、それ以前に、死ぬまでのひと時、無為に過ごすだけが生ではなかろう?と。勿論、有為に過ごすだけが生でも無い訳だが、何をするのかしないか?さて?

身近な親戚に70歳を超えて、益々元気!というモデルが居ない。
…という事は、自分のモデル設計も70で良いのか?

明日、心臓が止まるとしたら?
そーさね。寝るくらいしか、やる事ないな。
強いて挙げれば、パソコンのデータを消すくらい、かな?

一年後、心臓が止まるとしたら、何をするか?
五年後なら何を?十年後なら何とするか?

ただ生きるのは、馬鹿らしいのか?
それとも、難しいのか?

自分が此の世を去る時。
何を遺してしまうのか?
出来得る限り、何も遺したくない。
どうすれば、そうなる?
所謂、孤独死でも、遺体は遺るし、面倒掛けてしまうよなぁ…。

どうしたら、最小限の面倒で、此の世を去れるか?

言葉は残ってもいいさ。遺してもいい。
死して屍、拾う者なし。
時代劇じゃないのだから、これは無理。
今の世は、手続き、手続き、手続き…。何かと言っちゃ、手続き。
生まれて手続き、生きて手続き、病んで手続き、死んで手続き。
こーんなにも面倒な仕組みにしたのは、一体、誰なのか?

生に執着せず。なれど、飄々と生を、時を重ねる矛盾。

中島みゆきのアルバムじゃないが「生きていてもいいですか」?

「生まれ変わったら」という問いかけがあるけれど、「生まれ変わらない」という選択肢はないのね。

何で生き物は、生まれて来るのだろうね?

国内に暴力が蔓延り、明日をも知れぬ地に生まれていたら、生を必死に守るだろうか?

言論統制されている国に生まれたら、自由を勝ち取る為に動くだろうか?
…いやいや、そろそろこの国もヤバイ様子だから、声高に「言論の自由を!」叫ぶ必要がありそうな予感。^^;

今まで生きて来た時間よりもこれから生きる時間の方が、確実に短い歳になった訳だが、別段焦りはないし、明日死んでも“自分としては”困らないし、未来に大層な希望は抱いていないし、過去を絶望視している訳でもなし。。。
さて、どうしようか?と考えあぐねているのが、今!まさに、今だ。

自分の未来の時間が少ない分、子供らのために時間を割いてもいいのだよな。
我が子であれ、他人の子であれ…。

いわゆる「こども食堂」を調べてみたら、一応、自分の住んでいる静岡市にもあるらしい。が、しかし。場所の記載が一か所を除いて何処にも無い。記載すると何か弊害があるのだろうか?

まっ、別に「こども食堂」で無くても全く問題ないのだが、調べて出て来ないのは“勘ぐる”よねぇ??

「未来が面倒」と感じるようになったのは、いつ頃だっけか?

過去は変えられないって、誰もが思っているのかな?
でもさ。
晒したくない過去は、言わないし見せないし伝えないでしょ?
変えなくても隠す事は可能な訳で、見せ方次第だけど、良くも悪くも出来るような気がする。

未来は変えられる?と言うか、いつだって昨日と違う今日や今日と違う明日を作れる訳なのだけど、機会はいつだってあるのに実行しないのは、昨日に縛られ過ぎているのかもよ。

矛盾あってこそ「人」さ。


〜〜10月15日の呟きより